FADO CLUBE JORNAL34号(2002年4月発行)より

<月田秀子の昨日、今日、明日・・・>



大西洋をはるかに望むテージョ河沿いのレストランで、アントニオと昼食を取っているところに、その悲しい知らせは届いた。「カルロス・ゼルが今朝、死んだ」。携帯電話を切るなり、真顔でアントニオは、そうつぶやいた。「嘘、嘘、信じないよ、そんな嘘・・・」笑っているつもりの目から、いつのまにか涙がとめどもなく溢れ、サングラスの縁からはみ出し、買ったばかりの黒の毛皮のベストを濡らした。アントニオの目からも、涙が溢れていた。

アントニオと知り合ったのも、カルロス・ゼルのお陰だった。八年ほど前、リスボンの「ヌーメロ・ウン」というお店で、カルロス・ゼルの紹介で歌ったとき、挨拶にきてくれた恰幅のいい初老の紳士がいた。その翌日、彼は今日の感激のお礼にとアゼイタオンある自分のワイン醸造所に、私を招待してくれた。「Joao Pires」というポルトガルでも屈指のワインの醸造所だった。飲むばかりでなく、ワイン畑を見たいと言ったら、しわの下のつぶらな瞳を丸くしながらも、風が吹きすさぶ、丘に広がる自ら開拓してきた広大な冬枯れのワイン畑に連れて行ってくれた。「あそこは自分が開拓した畑、その向こうは自分の息子が・・・」少年のように目を輝かせながら説明する彼がやけに逞しく見えた。そして、ワインと同じくらいファドを愛していた。その紳士がアントニオだった。

私たちは目を真っ赤にしながらも、注文した魚を、悲しみを体の中に押し込むように食べ、レストランを後にした。気を抜くと、その全てが口の中から飛び出してきそうだった。ベージュのジャガーを走らせ、リスボンへ向かった。海に負けないほど青い空を、一羽のかもめがよぎって行った。その時から、リスボンの空は、青さを失い、灰色に覆われた。

「カジノ・エストリルで、君が歌う手筈を整えた」そんなファックスが、カルロス・ゼルから送られてきたのは、去年の11月のことだった。彼は一年程前から、カジノ・エストリルで、毎週水曜日ファドを歌っていた。毎回彼は、様々なファド歌手を招いていた。そのうちの一人として、私は、嬉々としてはるばる日本からやってきたのだ。私の出演日、リハーサル中、体調が悪いというカルロスに、「ああ、可哀想に、風邪かな?熱があるの?」と彼の首に手を当てたのが彼にふれる最後になった。リハーサルで歌うカルロス・ゼルの声を楽屋で聞いた私は、てっきりその日彼は歌うものと思い込んでいた。しかし、彼は結局本番にも出ず、居合わせた客に挨拶だけして、家に帰ったという。彼の手から渡されるはずの記念のガラスのギターラの置物は、急遽司会を勤めた男性から受け取った。招待してくれたカルロスに、ありがとうの一言も言えないまま、昨夜のステージの幕は下りた。そのことが、大きく心にのしかかっていて、その晩、ほとんど眠れなかった私は、朝方、誰かの悲鳴を聞いた。それは、私にとって大切な人が、亡くなる時に決まって聞こえてくる音だった。

アントニオに送ってもらってリスボンの安宿に戻り、頼んでおいたポルトガルギターを受け取るために、ギターの圭ちゃんと落ち合った。ギターを作ってくれたオスカル・カルドーゾが、工房に入るなり、「カルロス・ゼルの死を、ラジオで知ったよ。秀子は、彼に呼ばれてきたんだよね。可哀想に」と、目を伏せながら共に、彼の早すぎる死を悼んでくれた。ポルトガルギターは、スプールとジャカランダを使った見事な出来のものだった。そのギターを受け取るべき、ギタリストの上川保は、日本を発つ二日前に、お母様が亡くなったとの事で、来れなかったのだ。悲しい事が、重なった今回の旅だった。

今回は、カジノ出演という事で、新聞各社の取材、ラジオ、テレビ出演と、ポルトガル語の洪水の中で、私の頭は混乱し、憔悴しきっていた。カルロス・ゼルの葬式の前夜のテレビ出演は、何よりも辛かった。私の頭の中は、カルロス・ゼルの事で一杯だった。女性キャスターの矢継ぎ早の質問に答える私の顔は、どんなに醜く映った事だろう。何もしゃべりたくなかった。ファドのこと、アマリアとの出会いのこと、そんな事はどうでもよかった。ポルトガルでたった一人の私の友達、理解者が、消えてしまったのだ。テレビ局のメーク室でも、本番の最中も、待合室でも、安宿に戻っても、たがが外れたように、私はうつろだった。宿の狭い部屋には、そんな私を気遣って、東京から駆けつけたきうぴい嬢からの赤い薔薇の花が一輪、私を見守ってくれていた。その日は「dia namorados」聖バレンタインデーだった。

翌日、カルロス・ゼルの最後の歌声をたまたま録音していたので、それを残された彼の未亡人に渡したいと思いたち、CD-Romに録音してもらう為に友人のジョゼを訪ね、それを最後に、私はリスボンを離れ、アレンテージョにあるエストレモシュ行きのバスに飛び乗った。

エストレモシュの丘の上にある古い修道院を改装したポウサーダにチェックインして部屋に入り、白いペンキの剥げ落ちた窓を開けた。夜気を含んだ風が、道中のバスの窓越しに日に焼けた頬にひんやりと気持ちよかった。すでに陽は落ち、西の空は真っ赤に染まっている。リスボンの町は、その彼方にある。もはやカルロス・ゼルに出会うことのない町。当分その町を訪れる事はないだろう。例えポルトガルを訪れる事があっても、私は、旅人としてポルトガルの各地を彷徨い、リスボンに足を向けることはないだろう。「一つの時代が終わったのだ」。私は、そう自分に言い聞かせ、窓を閉め、久しぶりにバスタブに湯を張り、着古した黒いセーターを脱いだ。「誰かが死んだのか」と、アルファマを彷徨っている時に出会ったカタツムリ売りのカルメンリンダおばさんが、黒づくめの私の格好を見て尋ねたことを思い出した。「友達のカルロス・ゼルが昨日亡くなったの。あのファド歌手のカルロス・ゼルが・・・。」いぶかしげに彼女は私の顔を覗き込んだ。彼女は、カルロス・ゼルのことは知らなかった。ファドの何たるか、ファド歌手の名前なんて、アルファマの路地裏でカタツムリとともに暮らす彼女にはそんなことはどうでもいいことなのだ。「痩せたな」、鏡を見て思った。ぬるめのお湯に身体を横たえた時、三週間の様々な出来事が思い出された。旅はあと二日で終わろうとしていた。

「機内で第一声、マダムと声をかけられたのは、ずり落ちた老眼鏡のせいだけではないだろう。51才の旅が始まろうとしている。毎日日記をつけること」。巴里に向かう機内でそう記した後、手帳には何も書かれてはいない。ただやたらと取材のアポイントが、スケジュール欄を埋め尽くしているだけだ。そして、2月13日の欄には「11時半、カジノエストリル」その下には、「カルロス・ゼル逝去。9時半ミサ、葬式」。どうしようもない事実が記されているだけだ。

カルロス・ゼルに初めて会ったのは、1988年、テレビの「ピアノ・バー」という番組に出演した時の事だった。

やけに威勢のいい歌声に、少しのけぞってしまった事を覚えている。それ以降、彼は、自分が歌った後で、必ず私を紹介し、半ば強引に私は歌わされる羽目になった。ファドのお店でさんざんファド漬けになった私を、宿まで送ってくれたことがあった。宿の前で車をとめ、急に真顔でカルロス・ゼルが思いつめたように、私の手を握り締めながら、例の威勢のいい口調で一言一言噛みしめるように言った。「僕は、真面目な男だ。君にもわかっているだろうが、僕は初めて君を見た時から、君の声を聴いたときから、君を愛してしまった。なのに、僕にはその時すでに妻がいたんだ。でも、その気持ちはわかっていて欲しい」「あなたの気持ちは大切に心にしまっておくわ。私たちはいい友達になれるわね」 私は、彼の両頬にキスをして車を降りた。塩辛いキスだった。

そして、2月13日あの夜、カジノで歌うようお膳立てをしてくれたのが、彼の私への最後のプレゼントだったのだと、今、私は思う。私に関する記事は、その数日後の彼の死を報道する記事よりも圧倒的に大きかった。それは、彼が歌いつづけた本当の価値を思うと、彼の死に涙する人たちの多さ、悲しさを思うと、辛すぎる現実だった。その現実から逃げるように、私は、リスボンを離れた。

けれど、それも彼が残してくれた、最後の大きなプレゼントだったのだと思うと、そのプレゼントを大切に携え歌いつづけてゆく事が、わたしにできるただ一つの彼への恩返しだと思うようになった。

彼が好きだった伝統的なファドの一つぐらいは、歌えるようにならなければと、ポルトガル語ももっとしっかり勉強しなければと、今やっと、前向きに考えられるようになった月田です。



   

©TSUQUIDA HIDECO FADO CLUBE 2005

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