ジョイント・ツアー始末記

五木 寛之




 「歌」う、という言葉に連想する言葉がある。それは、「訴」う、という言葉だ。歌をうたうとは、心の中にたぎる何かを人に訴えかけることではないのか。
 それが世間(社会)であることもあるだろう。
 他人であることもあるだろう。
 天地、自然、大いなるもの(神や仏)に訴えるということもあるにちがいない。
 「おれは人のために歌ってるんじゃないんだ」という歌い手がいる。「うたいたいからうたう。ただ、それだけさ」
 しかし、それは「自分」という対象に向けて「訴」えていることなのではないだろうか。 
 歌には、聴く対象が必要である。「訴」える相手がいなくては、歌は成立しない。
 そう考えると、コンサートをやるということは、会場に人を招くという前提のうえになりたっていることがわかってくる。
 サービス、という言葉はしばしば誤解され、蔑視されることが多い。
 酒場でホステスが、言いたくもないお世辞をいうのがサービスだと勘違いしている人もいる。  
 サービスはサクリファイスと一対の言葉だ。奉仕と犠牲。
 みずからの血を流し、肉を削って相手に捧げる、それがサービスの本当の意味だろう。
 その意味で、歌い手は聴衆に必死でサービスしなければならない。それは「客にこびる」こととは根本からちがう行為である。
 月田秀子という歌い手は、これまで自分のために、そしてファドのために歌っているかのように見えるアーチストだった。
 彼女は客にも、主催者にも、共演者にも、決して「こびる」ことをしない。みずからの信じるファドに、一筋の歌ごごろを捧げてきた真のファドうたい(・・・)である。
 しかし、この数年間の舞台を聴いていて、少しずつ月田秀子が変わりはじめているのを私は感じる。
 本当の意味での歌う者のミッションに目覚めたのだろう、と私は勝手に思っている。
 最近の彼女の歌は、昔よりずっと大きく、広く、人間的になった。こういう歌手は、いまどきなかなかお目にかかることがない。これから十年間、彼女に注目していたいと思う。


日刊ゲンダイ連載6655回「流され行く日々―ジョイントツアー始末記―より



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