ファド・わが心の歌


Part1 ファドとの出会い

 「ファド」をご存じない方の為に、簡単にご説明しなければなりません。ライブコンサートの時と同じようにそれは私にとって一番苦手なことなのですが。フランスにシャンソンが、イタリアにカンツォーネが、アルゼンチンにタンゴがあるようにポルトガルにファドという歌があります。それは、かつてポルトガルの植民地だったブラジルへ奴隷としてつれて行かれた黒人たちの踊りにルーツがあるといわれています。それがいつしかポルトガルの特にリスボンの社会の下層民の生活の悲しみ、喜びを即興的に歌う歌として、19世紀始め頃から歌い継がれてきた歌といわれています。アラブ、アフリカの民族音楽、中世吟遊詩人のトルバドール、ジプシー等、港町として栄えた町ならではの異国の香りを含んだ歌といえます。1954年のフランス映画「過去を持つ愛情」の酒場のシーンで歌われた「暗いはしけ」という歌が私たち日本人には一番馴染みのあるファドではないかと思います。実は私が初めて聴いたファドもその「暗いはしけ」でした。


  私の10代後半は、世界的に大学の存在意義が問われ、日本では戦後民主主義が批判され、全共闘運動はなやかなりしころでした。その影響を少なからず受けた私は、何の魅力も感じられなくなった大学を中退し、自らの拠って立つ所を求めて、彷徨い続けました。そのころ、母が仕事にでかけたのを見計らって会社を休んでは、黒いリュックを背負い、たびたび家出した先が大学在学時代の友人とワークキャンプによく行った『あらくさ』共同体でした。

そこは、精神障害者と共に生きる共同体を目指し、滋賀県の近江舞子の山の中腹に宿舎を建てて、びわ湖に近いところに、畑を借りて、シュクラメンや椎茸なんかを作っていました。まだまだ体制が整わず、あちこちから、その趣旨に賛同する若者がワークキャンプに集っている段階でした。都会育ちの私には、土や草のにおいがたまらなく魅力でした。夜が開けるのを心待ちにして、まだ寝静まっているバンガローを抜け出し走って畑まで下りていったのを覚えています。パール・バックの『大地』ではないけれど、ひょっとしたら、何代か前は、そんな田舎で暮らしていたのかも知れないと本気で思ったものです。それと作業を終えて皆との夕食、当番制で一人頭100円にも満たない予算で作る夕食なのですが、てんこもりにした切り干し大根やひじきや、山菜の炊いたのがあっというまに無くなってしまうのです。残った煮汁を御飯に掛けて食べたこともあります。父母、弟と4人家族で育った私には、家族の枠を取り払って集った人達とのそんな屈託のない賑やかな食事が御馳走など無くとも楽しい一時として、特に一人暮らしの今でもときどき懐かしく思い出されます。そこでは、よく岡林信康の歌が流れていました。夕食の時だけ集まるような「食事共同体」なんていうものを作れないものだろうかと真剣に考えたこともありました。

ただ一向に出口の見えてこない苛立ちから、肉親にずいぶん心配を掛けたことも事実です。結局、自分というものを捨て切れずに結婚の約束をした人と別れた時に、私は初めて、親のためでもなく、ましてや社会の為でもなく、自分のために、自分の納得のいく生き方をしようと心に決めました。そうすることで、様々な差別に苦しんでいる人達、人間らしく生きるために戦っている人達と連帯できるのではないかという微かな確信を感じながら。


 「今度生まれてきたときに志そう」と思っていた演劇へのおもいがめらめらと湧いてきて、大阪の俳優養成所に通い始めました。女優になることへのあこがれなどまるで無い私には、そこに集う人達はまるで別世界の人達で、そのころ、テント芝居をめざして旗揚げ公演の準備をしていた「未知座小劇場」との出会いをきっかけに、養成所をやめ、その劇団に入りました。第二作目の「殉難者の祝祭」で初舞台を踏みました。ある時は革命オルガナイザー、ある時は「八百屋お七」、そしてある時は、三里塚の空港反対を体を張って阻止しようとしたおよね婆さんにと変身する役で私には荷が重すぎ、あえて演出家なしで上演するスタイルをとっていたその劇団で、私は一人、自分の役づくりのあいまいさに悩みました。打ち上げの酒盛りが色褪せて見え、この劇で、何が伝えられたのか、観客からも、団員からも、私の内側からも何の答えも出てこない不完全燃焼の非力感に打ちのめされ、私の足は段々劇団から遠のいて行きました。

小さい時から憧れだった演劇の世界にも私は生きることができなかった。日の射さない4畳半一間のアパートで、友人から借りたギターをつまびきながら覚えた歌が「難船」という歌でした。たまたま加藤登紀子さんの歌集に作曲「A.オルマン」として載っていただけで、お登紀さんの訳詞が、その時の心境にぴったりしていてよく一人泣きながら歌っていました。まさかそれがファドだとも知らずに。26才の春でした。


 30間近の時、シャンソンを初めて聞き、これはまさに一人芝居だと、そのころ京都で教室を持って教えておられた菅美沙緒さんの門を叩きました。初めて教えていただいたのが「愛の賛歌」でした。先生の勧めで大阪のシャンソンのお店「ベコー」のオーディションを受けました。菅先生の一番弟子、出口美保さんがシャンソン歌手を育てる為に作られた店です。もしこれで駄目だったら、自分に何かができるなんて思い上がりは捨てて、普通に真面目に生きようと一世一代の賭のつもりで臨みました。私は一人だけ補欠で通りました。あとで出口先生に伺ったことですが、「この子、歌は下手だけど人の心を動かす何かがある。」と思い、審査員の先生方に特別お願いしてくれたそうです。何をしても長続きしない私のこと、すぐに止めてしまうかもしれないけど、それまでは、精一杯歌っていこう、そんな思いで歌い始めました。といってもレパートリーは「愛の賛歌」「恋心」「思い出に生きる」と3曲、4回目のステージで歌う歌がない。出口先生に相談すると、「リクエストをいただきました。といって前に歌った歌から一曲歌えば」と言うことで、そんな状態から少しずつ曲も増えていきました。
それではもちろん食べて行けないので、練習する時間欲しさから、たまたま勧誘された生命保険のセールスをすることにしました。保険の勧誘員への世間の目の冷たさに精神的にまいってしまい、2年ほどで止めましたが。そのころの私の歌は、音程は外れている、リズムは目茶目茶、にも拘らず出演日には必ず聞きにきてくれるファンもできてきました。

そのうちの一人の方が、「月ちゃんの声に合ってると思う」といって聞かせてくれたのが、アマリア・ロドリゲスのファドでした。どの曲よりも衝撃的だったのがあの「暗いはしけ」でした。「海に出たきり戻らぬ人、人は彼は死んだというけれど、あの人は生きている、吹きつける砂の中、朝のかまどのやかんの湯気の中、このベッドのぬくもりの中、あの人はいつでも私と共に生きている。」意味などわからない私の心の中にどうしようもない慟哭が伝わってくる。愛するものを失っても尚生きて行かなければならない者のやり場のない悲しみが。生き続けることの強さが。「こんなすごい歌私には歌えないよ。」と言いながらも、こんな歌を歌ってみたい。声がきれいだとか、歌がうまいだとかそんな事を超越してしまうような人間の叫び、呻きのような、人が生きていることを感じるような歌を。アマリア・ロドリゲスのレコードを何枚か聞いているうちに、あの薄暗いアパートで歌っていた「難船」が彼女のファドだったことも知りました。


 はじめてポルトガルを訪れたのはその2年後でした。ファンの人の紹介でポルトガル海軍の練習帆船「サグレス」の艦長のフェルナンダ・ゴウベイヤ夫人とリスボンで会い、彼女は「ゴウベイヤさんツアー」と茶化しながら2日間、ファドのお店や、ギンショの海へ連れていってくれたり、男性ファド歌いの第一人者のカルロス・ド・カルモ氏に会う機会を作ってくれました。「秀子は、芸術家。ギンショの浜に着くなり、あの雨と風の中、テープレコーダーを片手に「海だ!海だ!ポルトガルの海だ!」と叫びながらとびだしていくんだもんね」と13年後の今でも笑いながら言います。

 帰国後まもなく、ゴウベイヤ夫人から大きな包みが届きました。ポルトガルギターでした。「がんばってファドを歌って」という声が聞こえたような気がしました。翌日から、そのギターを抱えて大阪中の楽器屋さんを訪ね、弾いてくれる人を探し歩きました。誰しもが、初めて見るそのギターに目を丸くして、頭を横に振りました。「さあねー。ファド聞いたことないな。」そんなある日、ギターやマンドリンを専門に扱っている店の社長から「興味を示している青年がいる」との電話があり、飛んでいきました。見たことも、触ったこともない、調弦の仕方もわからない、ファドなんて聞いたこともない彼に「大丈夫興味があれば弾けるよ。」なんて強引に手渡してから、半年も立たないうちに、大阪サンケイホールで、ファドを5曲交えたコンサートを決行しました。彼の苦労たるや、想像に難くない。今思うと、ポルトガル語の発音はひどいし、まるでファドの匂いもないのだけれど、反響は良く、ポルトガルへ行けと言う熱心なファンまで現れたのです。壮行会のオークションで集まったお金と、声援を胸にポルトガルヘ向かったのは、1987年の夏でした。



Part2 ポルトガル留学時代

 国立リスボン大学に留学することにしたものの、逗留先が決まらないと学生ビザが下りないと言う。アパート探しから始めなければならなかった。丁度、大学の夏期講座が始まっているということを大使館で聞いて、早速、リスボン大学まで行ったまでは良かったものの、夏休み中で学生の姿は見えない。掃除中のおばさんたちに聞いても、英語はつうじない、やっと事務所らしき所まで辿り着いて、連れていかれた教室ではすでに授業は2週間まえから始まっているらしい。かろうじて、「日本からきた月田秀子です。」とポルトガル語で言うのが精一杯で、「イエコ」とその先生が私のほうを向いて言う、どうも「ヒデコ」と私の名前を呼んでいるらしい。訂正してもらう言葉も見付からないうちに、その教室では私は「イエコ」になってしまった。まあいいかと思った。お昼休みに日本人学生がいたのでいろいろ聞いてみると、東洋人向け、上級者向け、ヨーロッパ人向けクラスとか、何クラスかに分かれているらしい。私が連れていかれたのはヨーロッパ人向けクラスらしく、フランス語でポルトガル語の授業をしているとのことで何もかもちんぷんかんぷんな筈だと納得した。それから2週間、学校から帰ってテキストを頼りに復習、真夜中を過ぎる頃、やっと今日先生のいっていたことが分かる始末。翌日勇んで教室に行くと、みんな黒板に何やら書いている。そこで初めて宿題が出ていたことに気が付くと言う具合の毎日が2週間程続いた。分らないので手を上げても「イエコは後でね。」と取り合ってくれない。小さい頃から優等生で通ってきた私の肩の荷が一遍に下りるような心地良ささえ感じた。

9月の終り頃から始まる筈の本科の授業が一か月程遅れて始まり、私は初級クラスに入った。マカオ、北京、台湾、アンゴラ、モザンビーク、ドイツ、インド、スウエーデン、オランダ、フランスなどからきた彼等と異邦人同士の気楽さからすぐに友達になれた。ある日、担当の教授が私を呼んだ。ファドを勉強しにきた私に是非知っておいてほしいことがあるというのだ。丁度一年前に、亡くなったジョゼ・アフォンソの回顧展が大学の構内で催されていて、彼は、サラザール独裁政権下、何度も投獄されながらも、歌を通じて自由を訴え続けた闘士で、1974年のいわゆるカーネーション革命は、彼の歌がラジオで流れるのを合図に民衆が立ち上がったということなど一所懸命説明してくれた。そして、彼の追悼集会でその革命のきっかけになったグランドーラという歌を会場の全員が歌ったとき、立上がり拳を上げ歌っていた先生の瞳が光っていたのを覚えている。昨年のコンサートの時、その歌を歌い、今年の1月にポルトガルを訪れた際のゴウベイヤさんの家でのパーティーで、そのテープを流すと、皆が歌いだし、「秀子はこの歌の背景を知っているのか」というから「当然」と答えた時から、彼等は一段と私に対して強い親愛の情を示してくれるようになったように思える。

ともかくその先生とは気が合い、政治や女性問題やら多分正確には半分も判っていないだろうポルトガル語でよく議論をした。私と同様、都会よりも田舎がいいと言って、リスボンからずーと東のアレンテージョ県のいなかで今はのんびりすごしているらしい。そんな素晴らしい出会いがあったにも関わらず、学校を離れると、知る人もなくポルトガル語の洪水を避けるように私はほとんど、半分地下になった部屋に閉じ籠っていた。


 その頃は、ファドの店で聞くプロの歌手のファドにはまるで魅力を感じなくなていた。それよりも、街角で宝くじを売る盲目のおじさんの声や、リヤカーで魚を売るおばさんの声にファドを重ね合わせてみたりしていた。ゴウベイヤ夫妻が連れていってくれたアルファマのお店で私は初めてファドを歌い、歌い終わると当分どよめきが治まらなかった。東洋人の歌う歌が珍しかったのだろうと思っていたら、彼等は本当に感動していたらしい。「秀子にはファドの心があると言ってる」ゴウベイヤ夫人からそう聞いたとき、ポルトガルへきて良かったと心から思った。その時ポルトガルギターを弾いてくれたのがアントニオ・シャイーニョ氏で彼が日本に来た時は必ず会うといった今では大の友人である。


 その年の暮れ、南ポルトガルのアルガルヴェ地方に旅した時に出会ったラウロという青年が、私を陽の当たるところへと導いてくれた恩人となった。大晦日の夜の町で唯一ついていた明りの店にいた青年である。その後、偶然にも2度程旅先でバッタリ出会い、変な男に付き纏われていた私を助けてくれたのも彼である。彼はわかりやすいポルトガル語でゆっくり喋ってくれたし、わたしのたどたどしいポルトガル語に一生懸命耳を傾けてくれた。それからは、私は一切英語を口にしなくなった。その為、今、英語がすっかり喋れなくなってしまったが。その後、彼の紹介で、新聞の一面に大きく「アマリアのファドを歌う日本女性」と題した記事が載り、それがきっかけでテレビ局から出演の依頼があったとき「私はファドを歌いに来たわけではなく、勉強しにきた。まだ私にはファドは歌えない」と言ったのだが、是非、日本語でのファドが聞きたいとのことで、「暗いはしけ」と「ヴィアナへ行こう」を歌うことになった。ギタリストはラウロ青年が探してきてくれたGパンしか持っていなかった私は、急遽安物の黒のニットのワンピースを買い、ポルトガルギターのプロフェッサー・エドガー・ノゲイラが友人に頼んで黒のショールを作ってくれた。

8年後、バイロ・アルトで歌ったとき、「あの時あなたのショールを作った」とその人に抱き締められた。そのショールは今でも使っている。それいらい、ラウロの紹介で劇場でも何度か歌った。でも、歌った後はいつでも落ち込んだ。「私の歌はまだファドじゃない。」そう言って涙ぐむ私を、「あなたはそう思っていても、私たちポルトガル人をこれだけ感動させるあなたはもう立派なファド歌いなのよ。」と肩を抱いて励ましてくれた友を私は忘れない。新聞でも「今我々ポルトガル人の歌手のほんの一握りの人達だけが持っているファドの魂を持ち合わせた日本人」とまで書いてくれた。そんな記事が載る度に、ポルトガル語などわからない福島に住む両親宛てに、その新聞を送ったりした。


 アマリア・ロドリゲスにも会えた。「あなたは日本語でファドを歌いなさい。」といわれたが、いまだに果たしていない。訳に忠実に日本語にすると字余りも甚だしく、韻を踏んだポルトガル語の原詞の美しさも出てこず、なかなか至難の技なのだ。


 圧巻はリスボン、コリゼウ劇場で夜通し行われるファドの祭典。プロの歌い手の合間にアルファマ、モラリアなどの各地区の代表が自慢の喉を競うその祭りで、6000人の大観衆の前で歌い終わった後の怒濤のような拍手と歓声、立上がり拍手する彼等の前で、ギターのレロが楽屋で教えてくれた両手を広げてゆっくり堂々とあいさつすることも忘れ、ただ呆然と立ち尽くしていた。舞台の袖に引き上げるや、足ががくがく震えだし、楽屋への階段を一人では上ることさえできなかったのを覚えている。楽屋の窓を開けると、鳥の声がして、もうすっかり夜が開けていた。その一週間後に一年間の思い出のいっぱい詰まったポルトガルを後に、日本に帰国した。飛行機がリスボンの空港を飛び立ち、眼下に赤い屋根の連なるリスボンの町を見た時それまで押さえていた涙が一遍に吹き出して、止まらなかった。隣に座っていた夫婦が「あなたの歌、テレビで聞きました。」と言った。


 言葉もわからずに落ち込んでいた日々の後に、思いがけない沢山の人達との出会いがあり、ただ、必死になって歌った。歌が旨いとか下手とかではなく、その一途な思いにポルトガルの人達は拍手を送ってくれたのだと思う。熱い思いがあれば、きっと道は開ける、何だってできる、そう思った。



Part3 帰国以降

初めて外国で一年間暮らしたということが、言葉も全然判らないところで、赤ん坊同然の扱いをされても、一人で生きたんだと言うことが自信として帰国後の私を支えていました。どこの馬の骨かわからない一人の東洋人が歌うファドに寄せてくれたポルトガルの人達の熱い拍手が私に、ファド歌手として生きる決心を固めさせてくれたのです。とりあえず、ポルトガルでの私に関する新聞・雑誌の記事を張り込み、スクラップブックを一冊作りました。次の段階で、はたと私は考え込んでしまいました。新聞社に送ると言っても、誰宛てに送ればいいのか、私には、なんのコネクションもないのです。歌うといっても、それを受け入れてくれる所がないのです。

シャンソンを歌っていた頃からのファンの人が人を集め、サロンコンサートを開いてくれたり、唯一京都のシャンソンのライブハウス「巴里野郎」が、ファドを歌う場を提供してくれたりで、少しずつ、仕事は増えてはゆきました。ポピュラーな歌もいれればもう少し歌う場もファンも増えるのにという助言にも私は耳を貸しませんでした。頑固、偏屈者と言われながらもともかくひたすらファドだけを歌ってきました。そんな私の不器用で一途な性格が今から思うと幸いしたのだと思います。そうゆう私だからこそ応援してくれるファンも口込みで少しずつ本当に一人ずつ増えてゆきました。コンサートで聞いた人が、この感動を他の人たちにも伝えたいからと自主的にコンサートを企画してくれたり、そんな人達の点が、少しずつ増えて、その点を結びながらのコンサートツアーもどきも最近ではできるようになりました。


 そんな地道な活動があったからこそ私は、私の歌ファドを大切に育ててこれたのだと思います。まだまだファドを知る人の少ないこの日本で、ましてや知名度のない私のコンサートを企画することはとても大変なことだと思います。一人でも多くの人に聞いてほしいという熱い思いが、主催者側と私達ミュージシャンにあればこそできることなのです。ひとつ大事なことを言い忘れていました。私の歌を支えてくれているギタリストの事です。ポルトガルギターの池側さんも、ギターの佐野さんも、野上さんも、みんなファドが大好きなのです。そして何よりも私と一緒に一つの表現・ファドを作って行こうと思ってくれているのです。そういうみんなの熱い思いが私の歌をしっかりと支えてくれているのです。どれ一つ欠けても、感動に満ちたコンサートなどできないのです。名誉とかお金とか権威とか私たちには無縁です。それらを拒否したところに私たちの活動はあります。人間の本来の営み、関係はそうあるべきなのだと思います。


  今年の一月、ポルトガルへ行って来ました。10年前ポルトガルでギターを弾いくれていたレロの事を少し話させて下さい。その頃はまだギターだけで飯は食えず、昼間は空き瓶の回収をしていました。その後1990年、アマリア・ロドリゲスのギタリストの一人として来日した時は、二人抱き合って再会を喜びました。その後、カフェ・ルーゾというファドの老舗でギターを弾いていたのですが、今回アルファマのレストランで再会しました。金曜日と土曜日だけファドのライブをしているお店です。プロ、アマを問わずファドの好きな人達が集まるお店でした。前の店は、彼には合わなかったようで、辞めたとのこと、この小さな穴蔵のような店で、通り過ぎる観光客の為でなく、地元の人達の為にギターを弾くことを選んだ彼は生き生きとしていました。それでは食えないから、昼間はタクシーの運転手をすることにしたという彼の顔は喜々としていました。庶民の歌ファドの頼もしい味方の誕生に思わず両頬にキスをしてしまいました。頑張ってね、レロ。日本でまたいつか一緒にコンサートしようね。


 リスボンのテージョ河に近い目抜き通りに「アマリア」というレコード屋さんがあります。向かいから発するばかでかいロックに対抗するように毎日ファドを流しているお店です。私が行くとお客そっちのけでファドの話に花が咲き、彼がプロデユースしたCDを次から次へと並べてくれ必ず一枚一番お気に入りのをプレゼントしてくれるのが社長のマヌエルという80才になるおじいちゃんです。今回は、アルコシェッテというリスボンから車で一時間位のテージョ河のほとりにある小さな村に連れていってくれました。村に入ると行く先々で家の戸を叩いて行くのです。ギターを持ってきたのにファドのお店はどこにも見当たりません。その村で一人暮らしをしている女性の家に入ると、すぐに近くのスーパーへ買いだしです。山ほどビール、ワイン、パン、フルーツを買ってもどると、三々五々人が集まってきます。人参を切っていたそのおばさんが急に歌い出しました。ポルトガルギターを抱えて一人の青年が歌い出す。そこらでつまみ食いをしていた人がギターを弾き出す。8才の女の子が椅子に立って歌い出すは台所がいつの間にかファドの店になりました。

夕飯をはさんでファドの宴は続きました。秀子の声に合っているんじゃないかと、分厚い歌詞を書いたファイルから一枚抜き取ってくださった人もいました。10年前、ファドを教えてくれる先生を探して歩いたけど、こんなに近くに、こんなに沢山、先生はいたのです。6年前、リスボンでアマリアのギタリストを従えてコンサートをしたことを勲章のように思っていた自分が小さく見えてきました。その夜の宴はマヌエルのリクエストで私の「涙」でお開きになるはずでした。帰りしたくをしている私に、「秀子、アマリアが好きだったら古い歌だけどこんな歌知ってる?」と言って歌い出したのが、私の大好きな「私の手」という歌で、彼女の高い澄んだ声と私のアルトの声の調和に、しっとりとした第二部の開幕となりました。そのうちに「テレビの番組でお寺で歌った歌なんだけど」と言って私が「置き去り」を歌ったことから、さっきまでのお祭り気分は一転、聞くところによるとその歌は、サラザールの独裁政権の下で、禁止されていた歌だと言う。

「あなたが消えたのは夜だった。暗いくらい夜だった。朝の来ない夜だった。あなたの名を呼ぶ私の声は、あなたには聞こえない。あなたに聞こえるのは風の音、波の音。」秘密警察に連行された人をしのぶ歌。その暗い時代を歌った歌が続く。「吹き過ぎる風のバラード」弾圧を避けてフランスへ逃亡せざるを得なかった詩人の歌。「いつどんな時代にも自由の為に戦う人がいる。吹き行く風に歌を撒き散らす人がいる。闇の中に灯を点す人がいる」静かな声が重なり合った。やさしく、それでいて頑として動じないハーモニー、それはポルトガル人を象徴しているかのようでした。「今度来たときは、みんなでコンサートをしよう。」感きわまって泣き出した私にマヌエルが言った。今回のポルトガル訪問で、一人のファドを歌う日本人ではなく、ファドを心から大切にしている彼等のうちの一人にやっと仲間入りができたような思いがしています。




 人はいろいろなしがらみの中で、歯痒い思い、地団太踏む思いで生きています。だからこそ人の痛みも判るのだと思います。ほんの短い間だけでも、心が熱くなるとき、生きていて良かったと思います。それを誰かに伝えたいと思う時、詩が歌が絵が生まれるような気がします。人間の栄光の歴史の影にある人々の悲しみを、無念の思いを胸に、生きていることの素晴らしさを私はこれからも歌い続けて行きたいと思っています。

1997.3.24〜26放送  NHKラジオ『人生読本』用原稿より



写真・記事の無断転載を禁止します。 ©TSUQUIDA HIDECO FADO CLUBE 2005

BACK